ポジションを取ること

マッチョイズムに、ナヨナヨイズム(?)がマウントされてボコボコにされています(笑)。

 

「口先だけで、手を動かさず批判ばっかりしているな」「手を動かして、行動しろ(=ポジションを取れ)」とある科学者が言っていますが、口先だけで批判していることに、何か問題があるのでしょうか?

本人を取り巻く環境において、アンチの批判が雨のように降り注ぐのは、精神衛生上よくないかもしれません。得てして、アンチのほうが声が大きく、シンパはほとんど声を上げません(アンチよりもシンパのほうが多いことが常ですが)。それ故に、アンチに対して、「批判ばかりしてるんじゃない」とか、「分かった風を装って、メタ認知してるんじゃない」という反論|反撃をしたくなるのもわかります。有名人税。知りもしない人や、批判されたくもない人種(つまり、ポジションを取ってない人種)から、言われもない暴言・珍言を吐かれるのです。

 

無意味な批判は聞き流せばよいのですが、アンチを晒すことで、シンパとの絆が深まるというメリットもありますから、反撃することもパフォーマンスなのでしょう。と言うか、全てパフォーマンスなのです。ちょっと刺々しいことを言ったほうが軽く炎上して、そして話題につながる。

 

その科学者については、アンチ的な思いも、シンパ的な思いもあります。研究自体には、シンパシーを感じつつ、過激な行動や発言にはアンチ的な思いもあります(本人には関係ない話ですが、これも有名人税ですね)。

 

さて、話を最初に戻しますと、『別に「口先だけで手を動かさず、批判ばかりしている」ことも、許容されるべきではないでしょうか』というのが私のポジション(考え方)です。それもダイバーシティです。それに、その「口先だけ」もポジションのひとつです。全員が、手を動かす必要はないのではないでしょうか(科学者本人が、そういう思想で動いているため、口先だけのポジションを許容できないのかもしれませんが…。親の影響もあるのかもしれません)。

「口先だけ」のポジションは、そのポジションに見合ったメリットとデメリットがあります。「行動する」ポジションを取っている人に比べると、例えば賃金が低かったり、与えられた仕事を淡々とこなすだけの事務的な仕事で、エキセントリックな仕事や大金を稼ぐということはなかったりします。すべて「ポジションごとに、定められたメリット・デメリットが有る」ということです。だからこそ、ポジションを取る、取らないという選択肢の自由があるのではないでしょうか。

 

その科学者が、一所懸命「ポジションを取れ」と言うのは、自分に言い聞かせるか、自分を慰める(必要が無いのにもかかわらず)行為にも見えてきます。別にかまわないんですけどね。ポジションを取って、リスクを取って仕事をし、発言しているわけですから、多少吠えたって良いと思います。

 

でも、人それぞれ、「リスクを取って、ポジションを取っている」と思うんですけどね。それぞれのやり方で。

マッチョイズム

 

メタ認知とは」

・認知を認知すること。

・人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。

メタ認知 - Wikipedia

 

「メタとは」

・高次な~、超~、~間の、~を含んだ、~の後ろのなどの意味の接続後

・愛対象を記述したものがあり、更にそれを対象として記述するもの

メタ - Wikipedia

 

 

父親譲りのマッチョイズムが見える。

情熱大陸の演出上の不満

昨日は久しぶりにテレビを見ました。

 

現在売出し中の科学者を特集したものでしたが、一体誰に向けて放送しているのか分からない内容でした。

その売出し中の科学者に付属する要素が、非常に多岐にわたっており、情報が散漫としてしまうのは致し方ありません。しかし、それは、取材をすると決めた時点でわかっていることであり、放送後の言い訳にはならないでしょう。

 

アーカイブも含めて、3回ほど見ましたが取材者が、その科学者の本を読んでおらず、勉強不足な様子が手に取るようにわかります。ただの雑談レベルの――週刊誌が取り上げそうな他愛もない話ばかり聞くだけで、その科学者が情熱を持って取り組んでいることに対して、一切質問できていないのです。

 

網膜投影についてもっと踏み込んで聞くべきではないのか?

科学者の創業した会社の弁護士が、映像を全部チェックして、特許を取っているという話をツイッターで見ましたが、つまり、科学者はほとんど全部見せているわけです。それについて、もっと詳細を深掘りスべきではないのでしょうか。

 

親や生い立ちについては30秒程度触れるだけで良いはずです。むしろ、親がどうとかは触れる必要はないでしょう。その科学者の研究に何の関係があるのでしょうか? ないですよね(笑)。

 

一般的なお客さん(その科学者について知らない人)に向けて、標準化した番組を作ったとスタッフは弁明するかもしれません。しかし、それは、科学者がやっていることを理解できずに、表層的にしかまとめ上げられなかったことへの言い訳でしかありません。

 

学会への〆切り間際のシーンで「主食が届いた」というナレーション。非常にくだらないですね。そんなことはどうでも良いのです。カレーをすすっているシーンを映すくらいなら(1回位は放送しても良いですが、何度も放送する必要はない)、研究に打ち込んでいる様子を放送すべきです。

 

科学者の研究している分野は、しっかりと切り取って、正しく放送すれば、難解故に内容を理解できなくても、一般的な人を引きつける魅力があります。

 

3ヶ月も取材して、それを理解できずに、一般大衆向けのバラエティ以下の番組にしたことは、非常にもったいないでしょう。(いやはや、まったく、アポを取るのが難しい科学者と、3ヶ月間一緒にいたという最大の利点を活かせなかった……。残念でしかないですね(笑))

 

グミが主食だということは、ネットで見ればわかることです。

あの番組でやるべきことは、魅力的な研究を噛み砕いて視聴者に向けて放送し、ググるための関心を呼び起こすことだったのではないでしょうか?

 

これまでの情熱大陸という番組のセオリーがあるのかもしれませんが、もし、これまでも昨日のような視点で演出していたのなら、見る価値はありません。

全くもって、不満足でした。

ネット上の個人情報の公開について

さて、昨日は月の半ばともあり、割りと仕事も忙しくなく淡々と仕事をこなしました。日経平均が2日連続上昇して、15日の下げを取り戻しましたね。16日も下げると思いましたが、あっという間に反発してしましまた。

11月15日近辺は海外投資ファンドの45日ルールにあたりますので、15日のような非常に強い下げが起こります。元々市場全体が過熱気味でしたので、その反発もあって、大きな下落となってました。

15日は選挙後の、最大の買い場でした(笑)。

 

さて、ネット上の個人情報の公開について思うことがあります。

誰もがネットに写真や、どこそこに言ったことを書いてアップしますが、それによって個人情報が特定されて、不要なトラブルに巻き込まれる可能性がある事をあまり深く考えてないのではないでしょうか。

 

ネットストーキング。

正直に言うと、とある有名人に興味があって、色々とその人の発言を(勉強のために)調べていたのですが、ネット上で書かれているその人の発言を集めていくうちに、なんと自宅の大体の場所を知ってしまいました。

弁護しておくと(笑)、別に知りたくて知ったわけではなく、本人が自らここに家がある。と言ってしまってるんですね。危ないですね。個人情報を自分で自ら公開するとは…。

おいおい、大丈夫か? と思いつつ、ついでにネットストーキングについて調べてみたところ、実際にネットストーキングをした人のツイートを見つけました。

 

 

その人は、ネットに公開されたちょっとの情報で、個人を特定し、ゴミを漁ったり何だりして、事細かく情報を集め、(たとえば)一家離散にまで追い込むことができる。と豪語しています(!)。

(たしかに、ゴミを漁ることで、何かしら個人の趣味趣向がわかるかもしれません。こち亀のエピソードで、シュレッダーした契約書をつなぎ合わせたと言うものがあります。コンビニの弁当から、いつ頃外に出るか、生活圏はどのあたり化なども見えてきそうです。ゴミを漁られることは、もはや、そうなっても良いと想定していなければいけないのでしょう。見られても良い状態のものしか捨てないことでしょう)

 

ネット上への不用意な個人情報の発信は、たとえ、本人だったとしても止めてもらいたいものですね。意図せずそれを知ってしまった方も、正直、嫌な気分になりますし…。

性格だから人に迷惑をかけても、許される?(わけないのである)

前半は普通の日記(読むに値しない場合が多い、ただの記録)。

後半はタイトルのテーマについて考えてみます。

 

保育園の申請がようやく終わり、後は、待機児童になるのを待つばかり。うん、諦めてます。というよりも、ブラックボックスに投入して、後は運頼みの認識でしかいないのです。

申請者ができることは、申請することだけです(笑)。

 

仕事の方は特に可もなく不可もなく、新しいプロジェクトの進捗管理をどうするかを考えていたくらいでしょうか。プログラミングができれば、できるだけ手がかからないツールを作って管理するのですが、相変わらずエクセル(関数)でやってます。有料・無料のサービスを利用してもよいのですが、コンプライアンス上、中々手が出せないのが、歯がゆいです(社内で共通のツールを作れってくれると一番手っ取り早いのかもしれませんが、共通化が難しいんでしょうね)。

 

さて、世の中には、「○○だから、しょうがないじゃん」という、わけの分からないロジックが幅を利かせています。

例えば・・・、

◆酔っぱらっちゃたんだから、しょうがないじゃん

とか

◆眠いんだから、しょうがないじゃん

とか

◆性格だから、しょうがないじゃん

などが、一番良く使われるロジックです。

他にも「アタマが悪いんだから、しょうがないじゃん」とかも考えられますね。もしくは、「かっこいいんだから、しょうがないじゃん」とかナルシストの人がいいそうです。ついでに「きれいすぎるんだから、しょうがないじゃん」と言うような、自分で言えば嫌味、他人が言えば皮肉・ヒガミに聞こえるものとか、「天才だから、しょうがないじゃん」と言うような、羨望とも、諦めとも取れる言葉、ロジックがあります。

 

後半蛇足になりましたが、これ、しょうがないことはないですよね?

 

「○○だから、しょうがない」といえば、なんでも済ませられるのでしょうか? そんなことはないですよね。「とにかく人殺すのが趣味なんだよね」と言うような猟奇的な人――例えば座間9人殺しの犯人など、性格だから、趣向だから、と言う理由で、行為が許されるはずはありません。

これは極端な例ですが、上記したものは、すべてにおいて、「しょうがない」と済ますことが出来ません(物によってはやむを得ない場合もあるかと思いますが、基本的には、しょうがないことはないのです)。

 

しょうがない、と言う言葉に秘められているものは何でしょう?

 

「甘えです」

 

しょうがない、と言う言葉を利用して、他人に甘えているのです。

酔っ払いが「酒のせいだから、許してね」と、浴びるように飲酒したことを反省すること無く、他人にその行為を許してもらうことで、自分を正当化しているのです。本来は、反省し、二度とそれに寄って迷惑をかけないようにしなければいけないにも関わらず。

 

眠かったら、何をしてもいいんですか?

性格だから、何をしてもいいんですか?

 

いいわけ無いですよね~(笑)。駄目なんです。いいわけ無いんです。ひとりで無人島で生きていれば、何をやってもすべては自己責任です。しかし、社会の中で、他人とコミュニケーションを行い、それにより生活をしようというのであれば、自分の間違った行動に対して、言い訳せずに、しっかりと反省をし、そして、正さなければならないのです。そうしなければ、諍いばかりが起こってしまうでしょう。

魚を焼くと、ネコが来る(がっかり)

ネコってかわいいし、野良猫を道端で見かけると、なんだか魅力的でロマンチックなのに、どうして魚を焼いた時に寄ってくるネコはうざいんだろうねぇ。

魚を取られるから?

それとも、乞食されているみたいだから?

 

反射的に答えるとすると、乞食にたかられているような気分になるからだと思う(笑)。金目のものがありそうだと、ドロボウが物色しているようにも見えるが、どちらも、「不本意」と言う言葉が付属する。

たとえ可愛い動物だったとしても、自分の意図しないところで近づいてくるは避けたいのである。家に寄り付かれて、おしっこをかけられるとか、早朝から「うにゅああああごおおお」と、赤ん坊の鳴き声・奇声のような気持ち悪い鳴き声を出されるとたまったものじゃない。餌などあげるつもりもないし、奇妙な鳴き声で赤子が起きてしまうなど「最悪」ではないか!(笑)

アパートに住んでいたときにもあったが、発情期のネコはマジでうるさい(笑)。早朝からお盛んになっちゃって、「うぎゃうぎゃ」キチガイじみた鳴き声を響かせる。障害者がうめいているのかと思うほど、人間の声に近い鳴き声の時があり、正直なところ、マジで止めてもらいたい。

 

と言う経験があるから、グリルで魚を焼いた後にやってくるネコには、がっかりしてしまうのである。しかし、ネコだって捨てられてしまったあと一所懸命行きねばならないということもあり、彼らだって、どうにか餌にありつきたいと考えているのだろう(←いやいや、そこまで深く考えてないと思うが)。

 

焼魚・魚のどこにネコは惹かれるのだろう。

 

 

 

 

と思って調べてみたところ、衝撃の事実が…!

irorio.jp

マジカ…!

焼魚に群がるネコたちよ、間違った習慣だ。黙って豚肉を食え…。

視覚能力|視力の影響|雑記

文字の識別能力に書ける。

ものの色と形、動きなどのシルエットに変換できる視覚情報は、割りと処理しやすいのだが、文字を認識することについては、私はかなり劣っているように感じる。

 

人と道を歩いていても、看板などに書かれた文字情報を認識するまで、人よりも遅い。その理由を考えてみたが、どうも知能の差だけではなく、視力の差も影響しているように感じる(主観的な話である)。

 

視力が悪いにも関わらず、普段から読書用の眼鏡を利用しているため(自業自得と言われればそれでおしまいだがw)、ある一定の距離を離れると視界がボヤケてしまう。一応焦点を合わすことは可能なのだが、遠くの物体に焦点を当てようとすると、乱視も重なって、どうもゆらゆらと焦点が動くような錯覚を覚える。

焦点位置が前後するような感覚で、船酔いや車酔いしているような、気持ち悪さを若干感じる。

 

視力が強い人は、遠いところの物体に焦点を合わせやすく、焦点距離の揺れも起こらないため、その物体を素早く認識できる。

回りくどく書いているが、つまりは目がいいと遠くのものが見えて、目が悪いと遠くのものが見えにくいことと同じである。眼鏡をしているため、遠くのものが見えているように錯覚しているが、乱視が入っているがゆえに、資格からの情報処理が遅くなってしまっている。

 

目、歯など、取替が聞かないものについては、大切にしないといけない。目が悪くなるということは、遺伝的な要因も大きいと思うが、後天的なテレビの見すぎ、暗いところで本読を見すぎなどの悪習が影響している。

認知能力が悪くなるということがどれほどハンディキャップか(人によってそれはマチマチではあるが…)、悪くならないとわからないということは、結構な皮肉だ。読書や勉強の集中にも悪影響をおよぼすことを考えると(つまり焦点があいにくいということは、勉強の集中の他に能が知覚情報を処理しているということであり、無駄なリソースを使っていると言って良い)、目を悪くしないようにすることが、どれほどメリットになるかは計り知れない…。

 

↑大げさだ(笑)。

しかし、今日一日目の奥からじわじわと痛み?が生じ、頭痛がひどかったことを考えると、目を大事にしなければと脈絡なく思ってしまうのであるorz

(「うーん、目が痛い!」)