精神をかき乱される嫌悪感

落合陽一が嫌いだ。

 

メディアアーティストであり、大学の助教としてテレビにも出演しているため、批判しても多少は大丈夫だろうか。二律背反ではあるが、嫌いであり、好きでもある。

 

彼の発信する情報や未来像について、非常に強い関心を持ち。それでいながなら発信される情報を浴びれば浴びるほど、自己嫌悪に陥り、強い関心がネガティブな色に染まって「嫌い」になるのである(笑)。

つまり「嫌い」とは、ほとんど言いがかりである。

関心があって、彼の著書を読み、インタビューを漏らさず読んでいっているのだから、自分から進んで落合陽一に近づいている。そして、読みすぎて(食べすぎて)消化不良を起こし、嫌いになってしまうのだ。燃えている火がきれいだな、温かいな、と近づいていくと、うっかりやけどをしてしまうというわけだ。

 

しかし、嫌いになる原因は、自分にある。説明のためにあえて規定するが、「平凡な人間の平凡なアタマで」彼が発する数々の情報をインプットし続けると、情報処理能力が追いつかず、ショートしてしまうのだ。彼の話は多岐にわたる。本業の分野だけでなく、政治、経済(仮想通貨・為替)、介護、自動車産業など、週替りどころか、数日で新しい要素が創出されるのだ。それに対して、ついていければそれに越したことはないが、そうでない場合、ある種の「見放された」感じがあり(ここが言いがかりの根源だ)、嫌いになってしまうというわけだ。

ある意味、この刺激は、自分を鍛えるいいエッセンスである。筋力をトレーニングするときも、身体に負荷を与えて、筋肉を鍛える。脳を鍛えるために、落合陽一の発する情報を受け取り、それを処理する工程は、非常に有益だ。しかし、だ。有益とわかっていても、やはり浴びすぎると、鬱屈してしまう。

 

故に、落合陽一が嫌いなのだ。

「嫌い」という防波堤をひとつ作り、その上で彼の情報をインプットする。すると、「嫌い]と言う防波堤が情報をフィルタリングしてくれるため、精神が鬱屈するほどのダメージを受けずに済むのである。彼について言えば、「ゲス不倫」などのような、一般的に嫌悪されるようなスキャンダルもなく、自分自身で、「嫌い」と言う防波堤を作らないといけないのである。

 

 

とは言え厳密に、好き嫌いの判断で評価しているかというとそういうわけではない。上記は単純化した話であり、嫌悪する理由のひとつでしかない。

(彼にとっては見ず知らずの人間に嫌われるという名の、有名人税だ)。